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【フィオナ・タン まなざしの詩学】展  国立国際美術館に行ってきました!

【フィオナ・タン まなざしの詩学】展  国立国際美術館の感想

「フィオナ・タン まなざしの詩学」展 に行ってきました。いやー良かったです!作家本人と学芸員中井康之氏とのアーティストトークに90分、鑑賞に4時間とほぼ一日、大阪中之島国立国際美術館にいたわけですが、すっかり楽しめました。アーティスト・トークも定員130名が満員でした。国立国際美術館の映像展は昨年の「夢か現か幻か展」「アンリ・サラ」など近年ハズレなしです。

ただフィオナ展の「興味深い時代を生きますように」97年(60分)、と「影の王国」2000年(50分)は連続上映となっており視聴に約2時間弱かかるので、できるだけ映像の開始時間に合わせて時間に余裕をもって行くことをお勧めします。


http://www.nmao.go.jp/exhibition/index.html


では「フィオナ・タン まなざしの詩学」展 の感想についいてですが、個展の会場設定が前半と後半で大まかに分けられて構成されています。前半は97年〜2000年ごろまでの初期作品や旧作で展開されており、「興味深い時代を生きますように」97年(60分)に端的にみられるように脱植民地主義的な個人の存在証明、ポストコロニアニズム的なアイデンティティについて考察されているように感じました。

フィオナ自身が華僑である中国人の父とオーストラリア人である母をもつ出自を持ち、その影響からか文化間の混交、クレオール化や大航海時代、グレイトアクセラレーション@台湾ビエンナーレにもつながるような現代アートの世界ではトレンドな問題意識ですが、97年という早い段階でそれが明示されています。

「リフトシリーズ」2000年では天から吊るされる一神教的な主体感覚が見られ、それに対比する形で展示された「ロール」97年では地面を転びまわる土着の土にまみれる主体感覚が見れました。

そして後半の展示では前半の導入部でみた「影の王国」2000年(50分)に通底するようなイメージの読み直し、詩学が展開されていきます。
「ライズ・アンド・フォール」2009年では縦長のダブル画面が並置され映像のイメージの交錯やモンタージュ効果を巧みに使いながら女性の時間を彫刻します。

とくに秀逸だったのは小品の「プロヴナンス」2008年で、子どもから老人までの6人の肖像映像を、オランダのフェルメール絵画や静物画のように、非常に静謐でやさしい日常の光につつまれた【時間】と【空間】で切り取って表現していました。それはあたかも思春期に悩んだ人間の存在根拠、それが国籍や出自や文化の違いにあるように思えた若気の感覚が成熟し、人間の存在根拠は人間を取り巻く日常の事物や光、たゆむ時間の中にこそあるのではと優しく教えてくれているようでした。フィオナは現在オランダに長く住んで活動しています。また「プロヴナンス」は学芸員の中井氏がフィオナ展をおこないたいと思ったきっかけになった作品だそうです。

最後に2009年のベニス・ビエンナーレのオランダ館に個展で発表された「ディスオリエント」と近作の「インヴェントリー」2012年が会場を締めくくります。両作品とも文化遺産アーカイブしたものを、いかに映像の詩学で切り取るかということが試されており、「ディスオリエント」ではマルコ・ポーロの遺した東方見聞録から抜粋された言葉とフィオナが旅行しながらドキュメントした現代のマルコ・ポーロの足跡の映像が並置されます。

「インヴェントリー」ではイギリスの建築家ジョン・ソーン卿が集めた考古学の資料や骨董品を6つの用途の異なるビデオカメラ(8mmやデジタルなど)で撮影して同時に投影します。このようなすでに歴史化されたイメージをツーリズムや映像の撮影手法などを使ってイメージの読み直しを私たちに投げかけてきます。

以上、4時間にわたる濃厚な鑑賞体験でしたが、はじめは出自や自分探しなど、アイデンティテーの問題から出発したフィオナが、映像作品の経験や旅を重ねるにつれて、イメージそのものの手法や効果、その読み直しや解釈の重層化などを経て、結果的に流動化した不安定な主体から、しなやかで強い個人になっているように感じました。以上、感想お粗末でした。

追伸:常設展の「辰野登恵子と日本の抽象絵画」ほか6つのセクションからなる展示も充実、見ごたえ十分なので時間には余裕をもって出かけましょう(^_-)-☆