アート系トーク番組 art air の日記

アート・美術・幼児造形などについて

この30年の日本のサブカルチャーと美術 国立国際美術館30周年記念シンポジウウム

大阪、中ノ島にある国立国際美術館
11/3に開催されたシンポジウム『サブカルチャー』のレポートのつづきです。


美術批評家の松井みどりさんの公演を聞いて、今回は
日本のポストモダンアート・サブカルチャーと美術の関係』について
私見も含めて書いていきたいと思います。
なかなか内容が高度でシンポジウムの会話をまとめるのが、
難しくて、引用が多くなっています。すいません。



さて
ざっくり言ってしまいますと・・・
ここ30年間、日本は西欧の大衆文化や都市整備、メディア化が急速に進みました。
一方でその急速な発展にたいして散文的に文化的な軋轢が生じます。
そのような軋轢に反応・もしくは反抗するような芸術が70年代以降から登場しはじめます。
そのような芸術は、人間と社会の関係を考える上で、
触媒として機能するアート
として誕生しました。
それ以前の視覚的、物質的というモダンアート的ではない、ポストモダンアートの誕生でした。




●時系列で無理やり表象批判、ポストモダンアートの作家の系譜を並べてみるならば


60年代 ポストモダンアート:黎明期


70年代 ハイレッドセンター
→急速な西欧化、都市化などの軋轢に反応するような芸術が登場しはじめます。
ハイレッド・センター 「首都圏清掃整理促進運動 (超掃除2)」1964
[rakuten:book:11349498:detail]



80年代 杉本博司、宮島達男、森村泰昌
→非西欧的な循環する時間や美術史における日本的身体の他者性といった高等的主題を扱った

苔のむすまで

苔のむすまで

「美しい」ってなんだろう?―美術のすすめ (よりみちパン!セ 26)

「美しい」ってなんだろう?―美術のすすめ (よりみちパン!セ 26)



90年代 小沢剛村上隆会田誠奈良美智
→日本独自の問題意識を盛り込んだ日本のポストモダン芸術
日本の芸術と「サブカルチャー」との融合を担った。
消費社会や大衆文化が生んだ様々な表象や物を
批評的に扱う表現の台頭と定着
サブカルチャーの引用はとくに90年以降、
マンガやアニメなどを中心に引用され表象的に分析、批判、展開していきました。
[rakuten:casablanca:10009717:detail]

MONUMENT FOR NOTHING

MONUMENT FOR NOTHING

深い深い水たまり

深い深い水たまり



00年代 榎忠、半田真規マイクロポップの時代)
サブカルチャーなどの表象分析から離れて、再び、知覚や連想のプロセスや、
身体感覚やコミュニケーションを通した場所や時間の特殊性を探る傾向

EVERYDAY LIFE/ART ENOKI CHU―榎忠作品集

EVERYDAY LIFE/ART ENOKI CHU―榎忠作品集



という感じになるでしょうか。




ところで、今回のシンポジウムで特筆すべきだった事は、
松井さんが「日本のサブカルチャーが現代美術に意味を与えた時代は、
2000年ぐらいまでで役目を果たしたと思っている

とコメントしていたことです。
サブカルチャーが現代美術に意味を与えた時代の、現象としては60〜90年代
美術史的な区切りとしては、80〜00年ぐらいの間だとコメントしていました。



その上で、今後のアートの展開を議論していきたいと言っていました。
結局は、時間がなかったため、2000年以降のアートの話はあまり展開されずに終わったのですが、
松井さんの考える今後のアートの可能性の一つに、夏に水戸芸術館でキュレーターをした企画展
マイクロポップの時代」展があったのかもしれません。



2000年代以降の日本のアートを考える上で興味をもたれた方は、一読してみてください。

マイクロポップの時代:夏への扉

マイクロポップの時代:夏への扉


さてもう一度、この30年間の「日本のポストモダンアート・サブカルチャーと美術の関係
をくわしく見ていくために、以下の松井みどりさんのレポート
表象の発見と拡散:90年代日本における現代美術の人間化」を引用してみたいと思います。


「90年代から00年代にかけて、日本の現代美術に表れた大きな特徴の1つは、
消費社会や大衆文化が生んだ様々な表象や物を批評的に扱う表現の台頭と定着だろう。
それは、現代美術を、抽象という様式や日常から隔離された精神体験への固執から解き放ち、
現代に生きることの意義を考えるための手段として捉える傾向の表れだった。


この傾向をもっとも強く代表するのが、村上隆会田誠小沢剛ら60年代前半生まれの作家であり、
その先駆は、杉本博司、宮島達男、森村泰昌の表現に見出される。
彼らは、ミニマリズム、アプロプリエーション、ランドアートや介入という
70年―80年代のアメリカで確立された手法に、日本独自の問題意識を盛り込んだ
日本のポストモダン芸術として、海外でも高く評価された。」


中略


「同じ日本的題材でも、杉本や森村たちが、
非西欧的な循環する時間や美術史における日本的身体の他者性といった高等的主題を扱ったのに対し、
村上、小沢、会田は、日本の芸術と「サブカルチャー」との融合を担った。


彼らは「オタク」好みのSF漫画やアニメ、あるいは「ガロ」に代表される
左翼的アンダーグランド漫画の表象や制作過程を重要なエッセンスとして取り入れることで、
60年代以降に成長した世代の、おもちゃや物を通して形成された歴史的共通感覚や、
ユートピアへの共同幻想を体現すると同時に、日本のポストモダン社会において
主体的な創造性をもつことの困難さ
や、国民的美意識や教養の欠如、
共同体の記憶の喪失などを反映
さしてみせた。


一方で彼らは、高等文化や故郷への喪失感―すなわち自らの共通体験の構成基盤が、
キッチュで「子供っぽい」ものであるという否定的自意識―を糧に、
日本のポストモダン体験の悲劇性を反映する独自な現代美術を作ることの可能性を示した。

中略

村上たちより若い世代は、サブカルチャーなどの表象分析から離れて、
再び、知覚や連想のプロセスや、身体感覚やコミュニケーションを通した場所や
時間の特殊性を探る傾向を示している。(中略)そこでは作品の意義は、
その形態的な美や統一感によって体現されるものでも文化的文脈によって
正当化されるものでもない。


むしろ、美学や文化的なカテゴリーに止揚される前の、不定形な想像の運動や身体のリアリティーが、
細部のつながりや空間構成を通して観客のうちに、どれほどの強度で呼び起こされるかが、重視されているようだ。


(中略)


そこで発見されるのは、「作品」そのものでも「文化体験」でもなく、
既成の事物を普段とは違う視点から眺め、感じ、使う、個人の想像力と実践力なのである。
こうした断片化、脱文脈化を通した人間的な主体性の発見や、「使用」を通した事物の新たな価値の創造は、
現代美術のみならず、ダンスや文学、建築の過去5年間の新たな傾向にも見出される」



とまあ、こんな感じなのですが、参考作品がなく
文字だけで読むと、とても難しいですね。


参考作家の作品を知っていると、なんとなくわかるのですが
まあ、わからないものが世の中にある、
と、わかることは、とても大事なので、
わからなくても、いつかわかれば
それでよしと私も自分に言い聞かせています(^0^)