アート系トーク番組 art air の日記

アート・美術・幼児造形などについて

「この30年の美術をめぐって」国立国際美術館30周年記念シンポジウウム

大阪、中ノ島にある国立国際美術館
11/3に開催されたシンポジウムのつづきです。

 
サブカルチャーと美術』のシンポジウムで、松井みどりさんがしゃべった後のシンポジウムで、「この30年の美術をめぐって」評論家の浅田彰さん、美術史家の高階秀爾さん、国立国際美術館長の建畠哲さんが、討議をしました。
そこで、びっくりしたのが開口一番、浅田彰さんが「僕は最近は美術の外で働いているので、あまりたいした事は言えませんが、それでも先ほどの(松井さん)のような、驚く程精度が低く、くだらない発言よりは、マシなことが言えると思います」と暴言を吐いたこでした。「彼女は批評家ではなく情報コラムニストだ!」とも言っていて、これには寝ていた聴取も目をさまして、かなりひいていました。


 最初はずいぶん乱暴な話し方をする人だなと思って聞いていましたが、話を聞き終わると、松井さんとの考え方の共通項も多く、異なる視点で同じものを見ていることが分かりました。あとから考えると少し眠気の増した会場に喝をいれるための暴言だったのかもしれませんね。
それでは、どのような内容だったのかを、私見をまじえて、かいつまんで書いていきますと、


まずは浅田さんのお話
「冷戦終了後、国家が主導するような大きな物語イデオロギーは終了し、近代的な成長がひとまず頭打ちになった後、いろいろな問題や矛盾が出てきました。
人々は個々人でそのような問題や社会と向き合い、付き合いながらさまざまな小さな物語を生み出すようになりました。
このような時代は、高度資本主義社会、高度情報化社会、ポストモダン多文化主義など様々な言葉で語られていますが、生き方や考え方が多様化した時代と言えるのでしょう。


このような大きな物語や太文字の歴史が終わったという時代に、では人々はどのように生きていくでしょうか。
まず1つは「動物的な生活
アメリカ的なライフスタイルで物質的に満たされて生きていく(テレビ・ジャンクフード・公園・ジョギングなど)
もう1つは「日本的スノビズム
→空虚な時間を空虚に過ごす生き方

逃走論―スキゾ・キッズの冒険 (ちくま文庫)

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また、日本のアートのあり方については、3つのあり方があると分析していました。

1、イマージナルアート(周辺アート)・・・全ての人が創作者であり、自分のために創作する
2、ポピュラーカルチャー(ハリウッドなど)・・・大衆に向けて作られる芸術
3、ハイカルチャー・・・一部のエリートがエリートのために創作するアート
などなど、いろいろ現代社会についての考察を語っておりました。

構造と力―記号論を超えて

構造と力―記号論を超えて

そこで興味深かったのが、大きな物語が終わった後、いっけん多文化主義や小さな物語がたくさん生まれて非常に多様化や自由化が進んでいるようにみえるが、一方でグローバリズムの旗のもとに西欧列強国のいまだ弱者への搾取はつづいており、情報化のスピード化と世界中への浸透ぶりによって、ますますそれは加速している。
そしてそれは、女性・こども・非欧米文化など西欧のマッチョな近代にとってはマイナーな文化や共同体に対しても同様で、
(いっけんジェンダー論・性差論や脱植民地主義・ポストコロニアズムという思想が、そういったことを克服するために生まれてきた思想であるにもかかわらず)
結局は西欧の利権主義に優先され利用される形で、機能しているという、かなり自虐的な発言をしていたことでした。


次に、国立国際美術館長の建畠哲さんが浅田さんの話に補足するような形で話を始めていました。以下に簡単に書いておきます。


今は不寛容の時代である
実は歴史は終わっていないのでは、ないか?
まだまだモダンの思考に侵食されているのでは?
どこかで、モダニズムの巨大な物語は終わっていないと思わないと足元をすくわれる
そして考え方によっては、今もアート(文学)は何かに回収されているのでは?
日本の現代美術は珍しい鎖国状態、1980年代前までは西欧の美を知っていた。いいか悪いかは別だが追いかけなくなった
国際展の情報だけが入る
多文化主義(マルチカルチャリズム)の本質的にもっている危険性・・・差異が大事という考えに陥りやすい。
他者を理解しようとすると差異が際立つ、理解ができない相手こそが他者であり、その他者の存在を許容することが大事である(思想家・レヴィナス


とまあ、こんな内容だったと思います。


話のところどころに、大きな物語・小さな物語・ポスト〜・脱〜という言葉がたくさん聞かれましたが、建畠さんが言うように近代やモダンが終わった訳ではないと思います。
私たちの暮らしが、国家や資本主義・商業社会、科学や機械なしで暮らしを始めたならモダンは終わったと言えるのでしょうが、今だそれなくしては生活していけないでしょう。


モダンは終わったのではなく成熟したのち、いろいろな所で問題が発生したために、問題を克服するために様々な試みが行なわれていると見るほうが自然なのだと思います。


そしてアーティストたちは、するどい感性でいち早く問題に気づき、それを表に抽出したり、問題の克服の仕方を提案したりと各方面でアクションを行なっているのだと思います。
そのためモダンが全盛期のような大きな1つのアートの流れがあるわけではないのですが、たくさんの表現の支流ができたということなのでしょう。