アート系トーク番組 art air の日記

アート・美術・幼児造形などについて

民衆の、民衆による、民衆のためのアート


つぎの、ビデオ作品は「キュレイター:ヤン・フート」です。

(イッシプレス制作、ワタリウム美術館企画)

ヤン・フートは、1992年に催されたアート界の

オリンピックともいわれる「ドクメンタ9」の芸術監督を務め、

アートと社会の接点を問う多くの展覧会を作り上げてきた

ヨーロッパ有数のキュレイタ−です。

このビデオは91年の来日時のドキュメンテーションとして、

彼自身のコンセプト、アーティストとの対話、

展覧会を作り上げるプロセスを収録したものです。




面白かったのは、日本の芸大生が100名、選ばれて

作品をヤンフートに観てもらい意見を聞く場面です。

そこには、一生懸命プレゼンする若き日のアーティスト、村上隆

通訳として現東京都現代美術館学芸員長谷川祐子さんが映っていました。




ヤン・フートの言葉


「アートは信念をもっているものだ!」

「アートは新鮮(フレッシュ)な力なのだ」

「きれいすぎる、整いすぎる。アートは飾りではない」

「重く刑務所にとらわれたような作品はアートではない

アートは刑務所から救い自由に解放してくれるものだ!!」

「行き先を失った私だから私はアートに惹かれるのだ」

「アートは私に立ち上がる可能性を与えてくれる」


ヤンさん、熱いです(^0^)




ヨーロッパ人が考えるアートはやはり「自由」です。

どうしてヨーロッパ人が、これほど自由にこだわるかと

言いますと、宗教と思想の影響があります。

キリスト教などの一神教では、神との契約がとても大事です。

契約により永遠の命が保障され、魂が救済されるのです。

ただ人間ですから、契約を守れない時もあります。

その時のために、懺悔(ざんげ)というシステムがあります。

「契約ー懺悔」による社会では、個人がしっかり成長していきます。

自立という考えや、個性、自己追求なども発達しました。

しかし、神の威信がなくなってずいぶんたった社会では

魂の救済は約束されず、システムとして「契約社会」は残りました。

「契約」によって、がんじがらめになった魂を自由に救うために

アートは機能するようになったのです。




一方、極東の国、日本ではどうでしょうか?

自由を求めるほど、閉じ込められているでしょうか?

以外に、みんな自由で平和なような気がします。



日本の場合は契約の変わりに、全体主義島国根性」が

目に見えないかたちで、本人たちもほとんど自覚症状がないままに

支配されているように感じます。

たとえば、人と違うことを極端に嫌ったり、

周りの人に異様に気をつかったり、

最近の「空気よめない」ブームも一緒ですね。



全体主義」が良い方向にはたらけば、お互いに助け合い

気にしあうことで、治安の良い社会になります。

しかし、不況や不安が全体主義の中に広がると

ヒステリック状態をおこし、あやまった方向へ一気に

行ってしまうことは、容易に想像ができますね。



日本のアーティストたちは、民衆があやまった方向に

行こうとするのを気づかせたり、警告する大事な役割があると思います。

それは昔の炭鉱夫が、穴ぐらにカナリアを一緒に連れて行き、

カナリアの鳴き声や体調を確認することで

有毒ガスなどの危険から身を守ったというお話と一緒です。



日本のアーティストは民衆に自由を与えるのではなく

「不安をとりのぞき癒し」

「危険をしらせ」

「あやまった方向に行きそうな民衆を救うこと」

こそが、使命なのではないでしょうか!



そうです。「民衆の、民衆による、民衆のためのアート」こそが

今もっとも必要なものなのかもしれません。